仮面ライダーオーズ総括 ~際限ない欲望とメダル争奪戦と生の肯定~

 『仮面ライダーオーズ』全話完走しました。

 リアルタイム以来2度目の完走になります。

 『復コア』のやったことはどうだったのか、その確認作業でもありました。

 まずはオーズ、やっぱり面白すぎる。小林靖子の脚本にハズレなし。

 子供の頃はライダーがどれくらい活躍したかが焦点になりがちだけど、今見返すとドラマ性や玩具販促に関して抜かりがないのが分かる。

 どこまでも届く腕(力)が欲しい青年、生命が欲しいメダルの怪物、取り込まれた兄を助けるために苦悩する少女、一億欲しい医者、世界を守りたい元警官など、「欲望」をテーマに各々が考えを巡らし葛藤する構図は一年通して見応えがあったのがわかる。

 玩具販促も理由付けが丁寧だ。平成以降のライダーにありがちな派生フォームを持て余したり尺を伸ばすために舐めプしたりしてしまう展開に「メダルを奪う、奪われるから安易に登場できない」という理屈を付けることで派生フォームの出番のなさの理由付けと、常に全力を出せない展開にすることで視聴者の鬱憤が溜まらないように出来ているのは見事としか言いようがない。

 例えばコンボの1つであるガタキリバコンボだと「分身して戦えば1番強いから毎回なればいいじゃん」というツッコミが発生しがちだがそこに「コンボに必要なメダルが足りないから」という理屈を付けることで「出さない」を「出せない」に変えることが出来るわけだ。現にクワガタ・コア、カマキリ・コアは1年通してどっちかが足りない場面が圧倒的に多かった。(おまけに20話以降どちらも手元に戻ることはなかった。)

 この仕組みを利用することで舐めプしてしまう展開を極力減らし今一番販促したいフォームを集中して登場させることもできるわけだ。

 また、メダル争奪戦という構図を一年間続けることでいつメタルが奪われるかという緊迫感を演出しながらも視聴者にもメダルを欲しがらせて購買意欲が増すという仕組みが出来上がる。

 現にその年の1円玉、5円玉、50円玉の発行合計よりもオーメダルが作られたというから、売れに売れまくったのが分かる。

 

 かくいう私もオーズ放送当時はメダル集めに熱中した。というかあちこちでメダルが売り切れすぎて玩具店を奔走したものだ。

 オーズドライバーの購入整理券を貰うだけでも1時間待ちの行列ができたりライダーに疎い人でもオーメダルは持ってたりするくらいには、あの時は日本全体がオーズに熱中してたと言っても過言ではないだろう。

 バンダイのライダーの売上でオーズの放送時期が10年近くトップクラスだったのも頷けるわけだ。

 

 さて、話を戻すがオーズのテーマである「欲望」は負の面を描きつつも根幹は正の面、つまり肯定的に捉えていた。

 欲望そのものは不要、害悪ではないと一貫している。(警察のお世話になるようなケースはその行動自体が問題であって映司達によって全力で止められてるし劇中でも言及されている)

 あくまでヤミーによって物理的に欲望を満たそうとするのをオーズが止める図式は一年を通して変わっていない。

 鴻上会長の言っている通り欲望とは生きるエネルギーであり「誕生=生」を肯定的に捉えている。

 それと相対するのがドクター真木の「良き、終末」である。綺麗なまま無理やり終わらせて「無=死」に還すのである。

 当時東日本大震災があった。私が言わなくても分かるような話題である。日本全体に影が落ちてた時期でもある。そんな中でオーズは生きる希望、活力をくれたのだ。欲望を持つことは生きることである。それを肯定するのがオーズだ。

 

 主人公:火野映司も「どこまでも伸びる、誰にでも届く俺の腕、力」=「オーズ」という構図も、32話で親とはぐれて泣いている少女を助けるセルフオマージュをやっている。

 その後、最終的にどこまでも届く腕も「誰かと繋がる絆」ということに認識を変えている。

 『MOVIE大戦MEGAMAX』でも未来でアンクと「再会」できることを夢見て映司も比奈も進み続けているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 それを踏まえた上での『復活のコアメダル』、一体何を考えているのか。

 泣いている少女をかばって助けるという構図自体が本編の二番煎じである。

 死ぬことで火野映司が完成するというなら、考え方がドクター真木の「良き、終末」と同じではないか。

 生きることを肯定していない。むしろ否定だ。

 比奈もあれだけテレビ本編で映司やアンクのことで苦悩していたのに復コアではまるで活躍がない。

 アンクも映司が死んでただ泣くようなキャラじゃないだろ。仮にもグリードならば映司を生き返らせたいという欲望くらいあってもおかしくないだろ。

 映司を殺すためだけに存在しているVシネ、それが『復活のコアメダル』。

 小林靖子の手を離れるとオーズはこんなあっけなく瓦解するのかと落胆した。

 「ライダーから卒業させたかった」のなら勝手に卒業式でもやってくれ。10周年で記念作作って客から金取って見せるものではない。

 映司が死ねばアンクが復活するという展開も、そもそもオーズ本編で等価交換なんて話はしていない。千世子さんの台詞からも分かる通り全部欲張ればいい。映司もアンクも生きてほしいだけだ。どっちかだけなんてオーズでは否定的に語られてる。

 信吾の言う「映司を都合のいい神様にしちゃいけない」という発言も、映司がなんでもかんでも自分で抱え込もうとする姿勢からそう見られたのであって、ホントに殺して神格化するやつがあるか。そもそも最終回で映司がみんなの手を掴むことを知ってそれは解消されたはずだ。だから『MEGAMAX』でも鴻上ファウンデーションの元でアンクを元に戻す研究を世界各地の皆の協力で続けているのだ。1人で無茶する映司自体最終回前までの話である。

 もし仮に映司がみんなの手を拒んだというならそこに至るまでの過程を書かなければならないだろ。

 映司が死ぬ結果のためにそこまでの過程が空虚なのだ。

 

 『MEGAMAX』の台詞で

  映司「もしかして一緒に戦うのこれが最後?」

  アンク「そうしたくなかったらきっちり生き残れ!」

の台詞も映司に発破をかける意味でしかないのに、未来では映司が死んでるなんて、映司に死んでほしい勢に都合よく解釈されすぎ。

 オーズTV本編を否定するならオーズの続編としての価値は無いに等しいのではないか。

 『仮面ライダーオーズ』を全話見返して改めて小林靖子の優秀性と復コアの歪さを再確認できた。

 

 「いつかの明日」、いつまでも待ってる。