仮面ライダー響鬼 総括

 仮面ライダー響鬼、完走してみた。

 まず私個人としては『響鬼』は前半も後半も好きであることを述べておきたい。紆余曲折あるのは感じられたけど、とても面白い作品だった。

 古来より存在する化け物、魔化魍。その魔化魍を人知れず退治する鬼のヒビキと偶然出会い人生に変化をもたらしていった少年、安達明日夢明日夢が鬼たちとの交流を通しながら夢や目標を見つけ鍛えていくというのが「仮面ライダー響鬼」のテーマと言えるだろう。

 しかし、『響鬼』という作品は前半と後半で大きく作風を変えてしまったのが良くも悪くも特徴になっている。

 個人的に前半と後半を分析しながら『響鬼』を語っていきたい。

響鬼前半(~二十九之巻)

 高寺版響鬼と勝手に呼んでる前半は、基本的に善人しかいない世界観・ある程度勧善懲悪の概念がある・ダークライダーに相当するライダーが出ないといったクウガの雰囲気も感じられる高寺ワールドといった作風だった。明日夢とヒビキさんが出会ってゆったりと時間が流れていく作風は、前作『仮面ライダー剣』が良くも悪くもスピーディーな作風だったので相対的に落ち着いて見えた部分がある。魔化魍退治のプロフェッショナルが淡々と魔化魍を倒す戦闘シーンも新鮮だった。クウガ同様に人として出来ている登場人物たちが自分に出来ることで脅威に立ち向かおうとする作風が高寺氏の作風なんだと思う。

響鬼後半(三十之巻~)

 白倉版響鬼とも呼べる後半は脚本:井上敏樹ということもあって良くも悪くもそれまでの平成ライダーに戻った作風だと思う。ライダー同士の対立がある・性格に難のある人物が出てくるといった特徴が挙げられる。特に桐矢京介の登場は、明日夢がヒビキさんの弟子になるかどうかという話を進める為に良くも悪くも『響鬼』の物語に必要な人物だったと思う。人間の醜い部分を時折見せながらそこで一生懸命生きる人間同士の絡みを入れる作風なのが白倉×敏樹作品だと考える。

水と油

 ここまで述べたように人の理想的な部分を掲げる高寺氏と、醜さも併せて人間の現実的な部分を見せる白倉氏の作風というのは同じ平成ライダーといえど対局に位置していると考える。少なくても響鬼で両者の作風は綺麗には交わらなかったのが個人的な感想だ。というより、高寺版響鬼が半分以上終わり、視聴者が馴染んできた段階で真逆の作風の白倉版響鬼をブッ込んできて視聴者が素直に受け入れるのはかなり難しかったのが結果なんじゃないかと思う。

玩具売上について

 話が逸れるが、『響鬼』の玩具の売上はなぜ良くなかったのか。私は単純に楽器モチーフというのは、売上に繋がるほど男児ウケが良くないのではないかと考える。身も蓋もない話だが、それ以降平成ライダーでは音楽が玩具に使われることはほぼ無くなっている。(白い魔法使いのハーメルケインがその後の例だが、それさえも発売されることはなかった。)女児向けのプリキュアシリーズでは2007年に楽器モチーフの武器が登場して以降6作以上楽器モチーフの武器やアイテムが登場していることを考えると、響鬼で売れなかったのがバンダイ的にトラウマになっているのかリサーチした結果なのかは分からないがライダーシリーズで楽器モチーフの玩具は出なくなっている。

 

 

 私個人としては白倉×敏樹作品は『アギト』や『555』など結構好きだ。しかし、白倉×敏樹作品が好きな私でも、高寺ワールド全開の『響鬼』の途中からブッ込むのはさすがに受け入れるのに時間がかかった。高寺版を最後まで見たかった気持ちはもちろんある。桐矢京介の加入で作品の雰囲気が大きく変わってしまったのも事実だ。視聴者が作品の変更を受け入れるには遅すぎたと思う。高寺作品から白倉作品になるには拒絶反応が大きかった。

 でも私は響鬼後半も好きだ。桐矢京介の加入で明日夢のヒビキさん弟子問題も大きく進んだし、キャラ同士の関係性も変わっていったのも特徴的だ。(でもザンキさん退場やあきらが弟子を辞める展開は必要だったのかは未だに疑問である。)

 白倉氏や敏樹氏を始めとした後半スタッフは、明日夢の存続と言った前半スタッフのやりたかったことを尊重してくれたようにも見えるし、最後は綺麗に着地できたと思う。最終回で「始まりの君へ」が流れながらヒビキさんと明日夢が夕日を見ながらこれまでの想いを吐露する場面は、これだけでも4クール見てきた甲斐があったと感じられる出来だった。

 私は響鬼前半も後半も好きだし4クール見てプロデューサーの重要性を認識することも出来た。完走出来て良い作品だった、そんな作品であると思っている。

(ご精読ありがとうございました。)